1957年に「生の舞台をこの北九州で観たい」と願う人々によって誕生した、会員制の演劇を観る会です

北九州市民劇場 

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私たちの歴史


~私たちの歴史 築地小劇場1924~

19世紀半ばヨーロッパに起こった近代演劇革新運動は、自我(個)の確立といった近代思想と芸術における表現様式の変革をめざして広がっていった。

日本は明治以降、それまでの歌舞伎などの旧劇に対して、新しい演劇への欲求、演劇の近代化をめざし坪内逍遥、島村抱月の文芸協会や小山内薫、市川左団次らの自由劇場が誕生、日本の演劇に近代写実主義と社会問題を扱った翻訳劇という新分野をもたらした。

しかし、小山内薫は自由劇場では自らの演劇要求を満たすに至らず、ヨーロッパへ旅立つ。小山内の弟子であった若き土方与志も、旧態依然とした演劇界の因習に憤懣とし「満たされない研究欲と芸術的不満」「屈辱と妥協」という思いの中、10年間の予定でドイツに留学する。

1923年、東京を焦土と化した関東大震災が起きる。

この震災で東京の商業劇場は壊滅し、その知らせを受けた土方与志は急遽シベリア経由で帰国。残った9年間の滞欧費をもって建設したのが築地小劇場であった。その際、土方は師である小山内薫に声をかけ、小山内はその返信に「おー!我らの劇場」と感嘆の思いを記した。

築地小劇場は、当時としては革命的な充実した舞台機構を備えていた。それだけでなく特筆すべきは日本で初めて付属の同名の劇団を持ち、新しい演劇を上演すると同時に、俳優の養成を行った。見落としてはならないのがここから日本型の劇団が生まれたことである。そして、その発足宣言に「反商業主義」を掲げ、築地小劇場は何のためにあるのかという問いに、小山内は「演劇のため」「未来のため」「民衆のため」にあると表明し、劇場が単なる演劇の紹介の場ではなく、将来の日本の演劇様式を確立するために、そしてあらゆる民衆のためにあるとして、新劇がめざす方向を示した。「特別会員制度」を設け、演劇の革新、西洋近代劇の「実験室」と言われ、日本新劇運動の先駆をなした。

1945年3月10日の東京大空襲で新劇運動の拠点であった築地小劇場(当時は国民新劇場)は焼失してしまった。まさに火の中に誕生し火の中に消えた劇場だった。だが、そこで培われた新劇の精神は今も受け継がれている。

私たちが歴史を共にしてきた新劇団は、戦前から旅公演をしてきた。

東京で芝居を作り、全国各地で公演する、日本の劇団は継続的に芝居を観ることに積極的に関わってきた。その中から私たちは誕生したのである。




~私たちの歴史 市民劇場の誕生1957~ 

1945年、敗戦後の日本は、戦争の深い傷と荒廃に喘ぎながらも、戦争から抜け出した解放感と文化的高揚感に溢れていた。

戦中は、様々な分野で戦意高揚という国策が布かれ、全てが自由に表現出来ない時代だった。多くの演劇人も戦争の犠牲となった。戦後、ようやく抑圧された状況から解放され、映画、音楽、そして演劇と活発な活動が再開される。各劇団も再興され、新劇ブームが到来する。やがて東京で上演された素晴らしい舞台を定期的に大阪の地で観ていこうという演劇鑑賞団体が立ち上がっていく。1949年、大阪勤労者演劇協会(大阪労演)の誕生である。サークル制・会員制を会の原則とした大阪労演は、60年代頃には2万を超す会員数を誇り、劇団は東京から移動して1ヶ月例会を行うまでになっていた。その影響は瞬く間に全国に波及していった。

創立期

北九州では大阪労演発足の1949年に、前進座「真夏の夜の夢」公演を初めて勤労者自身の手で実行委員会を作り、成功させた。この成功が北九州における演劇鑑賞運動の胎動となっていく。やがてその流れは八幡演劇観賞会誕生につながっていく。

一方、全国に波及していった大阪労演の影響は北九州にも広がり、1956年、八幡を拠点に会員制の北九州労演の活動が始まる。新協劇団「ネクラソフ」、同年俳優座、千田是也氏主演「タルチュフ」が上演され、「タルチュフ」では、入団四年目の仲代達矢氏が初めて創立者千田是也氏と共に北九州の舞台に立った。

「北九州市民劇場60年史」に、当時の様子が書かれているのでここに紹介する。

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七色の煙が北九州の発展を象徴した20世紀半ば。

八幡駅を皿倉山の方向に歩いていくと市立中央公民館、その先を上がって行くと八幡市民会館があった。八幡市民会館は、1958年、八幡市制施行40周年を記念し、文化活動の中核施設として、村野藤吾の設計により建設された。その前年の57年、北九州市民劇場の前身である北九州労演(北九州勤労者演劇協議会)は誕生した。北九州には、演劇を観る人は500人しかいないと言われた時代である。八幡に続いて59年に同じ村野藤吾の設計により小倉市民会館が建てられ、八幡を拠点に始まった労演も八幡、小倉と複数会場の時代が訪れる。労演の発展と市民会館の歴史は切っても切り離せない。

労演の事務局は、会館近くの中央公民館の地下に映画サークルと並んであった。一年に一度の定期総会はその公民館講堂で行われ、若者たちが集い、喧々諤々と議論した一日がかりの総会を思い出す。また、八幡市民会館の裏に劇団の定宿だった花尾荘がある。小沢昭一さんが日本で二本の指に入るいい旅館と言われた宿である。当時、昼公演はなく夜公演のみ。搬出が終わってからの食事は真夜中になることもあり、今の宿泊事情では考えられないことである。その広間で宇野重吉さんから駄目だしを受ける俳優たちの思い出は今はかけがえのないもの。他の劇団も同じだ。現在はホテルなのでそうした空間はほとんどない。長い旅をする劇団にとってご主人の人柄もあり家庭的で、酔っぱらってはいろいろご迷惑もかけたと聞いている。私たち労演にとってもありがたい存在だった。経済が苦しい時はいろいろご迷惑をかけたのではと推測する。その花尾荘での役員会、当時は男性会員が多く、その会議場となった旅館部屋は煙草の煙が蔓延、その部屋に八幡、小倉、戸畑、若松、門司から役員が集まり議論した。玄関を入ると今は懐かしい役者たちの個性的な色紙がずらり貼られていた思い出がある。

また、スタッフ達の宿は延寿荘。一度劇団がどんな旅館に泊まっているのか知るべきだと言うので泊まり込み役員会をその延寿荘で行った。大広間に多数で布団を並べ寝食を共にする。花尾荘も家庭的料理が好評だったが延寿荘もそうである。しかし、風呂は家庭風呂のような大きさで湯がどんどん出る現在と違って、早く入らないとほとんどなくなる。その時に劇団の旅の苦労と、その中にあっても旅をし、芝居が出来る喜びを感じている先人の思いを垣間見た。八幡駅をおりて改札口から見上げる皿倉山までの景色はまさに文化活動の象徴であり忘れられない思い出である。

そこに私たちは劇団をお迎えに行き、花尾荘のご主人は劇団の荷物を運びに車で駆けつける、その光景は80年代に小倉一極体制になってもしばらく続いた。

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演劇を観る人はいないと言われた時代に、北九州には北九州労演と、前進座公演から生まれた八幡演劇観賞会と二つの鑑賞会が誕生したことになる。しかし、八幡演劇観賞会が、後援会体質の個人的なプレイガイドだったため即刻赤字に陥り、一年後の1957年、両者が対等合併、ここに『北九州勤労者演劇協議会』いわゆる「北九州労演」が誕生した。合併して迎えた青年座「三人の盗賊」を第1回例会とし私たち北九州労演の歴史は始まった。

創立時、九州には鹿児島、長崎、北九州と3団体だったが、一度解散となっていた福岡、熊本が復活し、63年には5団体で九州労演の活動が始まった。しかし、5団体4307名の弱小団体では東京で生まれた素晴らしい作品を例会に迎えるのは困難だった。私たちはこんな芝居が観たいと劇団に要望を伝えたり、申し入れもした。が、やはり自分たちがいろんな作品を迎えるだけの会になっていくこと、新しい会を作っていくことなしに実現しない事を実感、そのために会員を増やし、お互いか協力しながら、5年後の1968年には、5226名を誇る鑑賞団体へと発展をつくっていく。例会は、俳優座「人形の家」、主人公ノラは市原悦子だった。試行錯誤、しかし高揚感溢れる60年代だった。

70年代

70年代に入って、鑑賞運動を囲む状況が一変し、それと同時に会員減少が始まっていく。その状況を打破するために、「一人でも1回でもいい」という福岡からの提案を受け入れ新しい時代が訪れる。がこれは、会員制を壊し、組織崩壊を生み出していき、1980年代を迎える頃には赤字により解散も噂される状況だった。

1975年には北九州市民劇場と名称変更、労演という勤労者だけしか観られない印象をやめ大衆化を図った。これも福岡からの提案だったが、この方向性は正しかった。市民劇場の始まりである。

しかし、「一人でも1回でもいい」と言う方針による混沌とした70年代にあって、着実に発展を作っている団体が全国の中で注目される。仙台と前橋である。仙台が、会員が運営に関わっていく事、運営総参加を運営サークルという形で行っていた。前橋は、組織原則である、「3人以上でサークルを作り1年以上観続ける」会員制を大切にし、チケットではなく会員手帳を発行し、それに相応しい方法を生み出していた。

2団体の発展は全国を励まし、その後全国の共通課題となり変化を作っていく。

会員制度と運営サークルによって発展方向に転換をとげた九州の中で、北九州も新しい時代を迎えたといっていい。

創立以来の私たちの理念である「日本演劇の民主的発展」

それを具体的にする方法の発見、さらにどの作品も大切にしていこうと言う、前例会クリアという運動の中で過去の最高会員数を超え発展をつくっていった。

また、子ども劇場と共に起こした「演劇上演に適したホールを」という劇場建設の展開とその成果として誕生した北九州芸術劇場という演劇専門劇場が実現。ステージ数も8ステージ、演劇を心から楽しめる演劇環境を作れた。

2005年には、奈良岡朋子さん、仲代達矢さんという新劇の名優が劇団の枠を超え実現した「ドライビングミスデイジィ」例会を迎え、創立以来最高の6,114名までの峰を作り上げることが出来た。

創立期は、観たい芝居がなかなか実現しにくかった私たち鑑賞会が今年、61年目、劇団と共に未来を作り発展を作っている。そのことを誇りに思える鑑賞会に育った。
迎えた作品は、500に近い。その歴史をお祝いする60周年記念祝賀会も昨年2017年に催すことが出来た。
生活の中に演劇を、そして演劇のさらなる発展を・・・そのことが、日本という国の文化を作っていく。
戦争のない、平和な日本を!その基本を作るのは文化、これが私たち壮大な夢である。

(日本における演劇史、北九州市民劇場の歴史は、記念誌「60年史に」記載)   

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